学校という場について

私の中に海老蔵が降りてきたかと思う程1日でブログを書き倒している。


10年もブログから離れたら言いたいことの1つや2つや100や200湧いてくるものである。

言う相手が旦那(半聞き)か猫(ニャーしか言わない)しか居ないので致し方あるまい。

かといって
おれ、にんげん、きらい。なもんで腹を割って話せる友人が一人しか居ない。その友人ももう4年会ってないが。


勿論リアルではここに書いているような金に意地汚い話はしないし、控えめでいつもにこやかである。


しかしこの「にこやか」を手に入れるのに長い年月を要した。


ある知人曰く私のことを「全く笑わない子だな」と感じた程表情が乏しかったのだ。
それは生い立ちや育ちに起因するものなのだが、当時はとにかく無表情無言の不気味な少女であった。

明るく純粋なかつ育ちの良い知人に感化されある日気付く。


「せや!笑顔はタダや!」



徐々に表情を獲得しながらも、
ギリギリ人並みの社会性を取り繕う術を手に入れたのはもう一度学校に入学し卒業するまでの31才の頃だった。

いわゆる「発達の歩み直し」である。
そういう面では同質集団、もしくは同目的集団に属する「学校」という場は社会に出るうえで重要である。

集団力動による協同、模倣・学習・修正、普遍的体験、現実検討、共有体験、相互作用・凝集性、表現・カタルシスなどなど学校という場は勉学だけでなく非常に効率よく社会性を学べる場所なのである。

不登校小学生YouTuberの言い分もわからないではないが(私も中退したし)、特別な才能が無い限りは学校で学ばないということは不幸を招く場合もあるので判断は用心深くなるべきである。


うわあ真面目に語っちゃったけど道端に100万落ちてねーかな。